あなたは何を言っているの?
相手が言っていることがさっぱりわからない時がある。相手としては、順序立てて論理的に話を進めているのに、である。そんな時、ひょっとしたら自分ではなく相手が単に頓珍漢で間違っているのではないかと思ってしまう。だが大抵の場合そうではない。 また、自分にとっては些細な違いでも相手にとっては大きな違いであることは往々にしてある。自分にとってどうでもいいようなことを、相手が何故そんなに重視しているのか不可解に感じるのだ。これは対象に対する、両者の解像度が異なる場合に起こりがちだ。 自と他は当然違うものであるから、相手を理解しようとする際には、自分の基準ではなく、相手となるべく同じような目線で物事を考える必要がある。至極当たり前のことだが、油断すると、自分の基準で相手を裁いてしまい、誤解をしたまま相手を理解した気になってしまう。そして相手の非合理さに困惑してしまうのだ。アカデミアでは昨今学際的な議論が好まれる風潮があるが、ただ異分野を徒に融合させるだけでは実りある議論は成り立たないのではないか。最低限ある程度の前提は共有していないといけないだろう。ここではそういった前提を共有できておらず、自分の常識や知識の範囲で相手を見てしまい話が噛み合わなくなる例を見てみる。 例えば、学問に対する目的意識が違うことがある。科学者の自伝などでは、好奇心や子供心を大切にし、学問それ自体を楽しむべきだとよく書かれ、新たな知識を得ることに学問の目的が設定される傾向にある。だが、学問それ自体を楽しみつつ、新たな知識を得て学問の発展に繋げようという立場からすると、例えばジェンダー研究はどういう点が楽しいのだろうかと感じてしまうかもしれない。社会や歴史的対象をジェンダーという新たな切り口で見ることを楽しいと感じる場合もあるかもしれないが、ジェンダー研究は学問の発展というより、自分自身や社会問題に関わる切実な動機から学問に向かう場合もあろう 。このように、学問は楽しむべきものだといった、自分の価値基準で相手を判断すると容易に誤解につながる。 また、言葉の使い方から、相手は自分のことをほとんど理解していないのだなと感じることもあるだろう。よくある例だが、相手を「文系」or「理系」の一言で言ってしまうのは、相手に対する解像度が低すぎる。「理系」と一言で言っても、その中には物理学...