あなたは何を言っているの?

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以下は真夜中にふと思い立って書いた記事で、この前の学祭で(哲学)サークルの会誌に載せた。(初めて自分の書いたものが冊子の一部になったので少し新鮮だった。会誌を作ってくださった皆様、フィードバックをくださった皆様ありがとうございました。)だが訂正が反映されないまま世に出回ってしまったため修正版をここに載せる(一応許可もらいました)。哲学サークルの会誌の中に一つだけエッセイが混じっていて浮いていたと思う。特に参考文献もなく、学術的な記事でもないのでキャッチーなタイトルにした。おそらくこれが私の最初で最後のエッセイだろう

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 相手が言っていることがさっぱりわからない時がある。相手としては、順序立てて論理的に話を進めているのに、である。そんな時、ひょっとしたら自分ではなく相手が単に頓珍漢で間違っているのではないかと思ってしまう。だが大抵の場合そうではない。

 また、自分にとっては些細な違いでも相手にとっては大きな違いであることは往々にしてある。自分にとってどうでもいいようなことを、相手が何故そんなに重視しているのか不可解に感じるのだ。これは対象に対する、両者の解像度が異なる場合に起こりがちだ。

 自と他は当然違うものであるから、相手を理解しようとする際には、自分の基準ではなく、相手となるべく同じような目線で物事を考える必要がある。至極当たり前のことだが、油断すると、自分の基準で相手を裁いてしまい、誤解をしたまま相手を理解した気になってしまう。そして相手の非合理さに困惑してしまうのだ。アカデミアでは昨今学際的な議論が好まれる風潮があるが、ただ異分野を徒に融合させるだけでは実りある議論は成り立たないのではないか。最低限ある程度の前提は共有していないといけないだろう。ここではそういった前提を共有できておらず、自分の常識や知識の範囲で相手を見てしまい話が噛み合わなくなる例を見てみる。

 

 例えば、学問に対する目的意識が違うことがある。科学者の自伝などでは、好奇心や子供心を大切にし、学問それ自体を楽しむべきだとよく書かれ、新たな知識を得ることに学問の目的が設定される傾向にある。だが、学問それ自体を楽しみつつ、新たな知識を得て学問の発展に繋げようという立場からすると、例えばジェンダー研究はどういう点が楽しいのだろうかと感じてしまうかもしれない。社会や歴史的対象をジェンダーという新たな切り口で見ることを楽しいと感じる場合もあるかもしれないが、ジェンダー研究は学問の発展というより、自分自身や社会問題に関わる切実な動機から学問に向かう場合もあろう。このように、学問は楽しむべきものだといった、自分の価値基準で相手を判断すると容易に誤解につながる。

 

 また、言葉の使い方から、相手は自分のことをほとんど理解していないのだなと感じることもあるだろう。よくある例だが、相手を「文系」or「理系」の一言で言ってしまうのは、相手に対する解像度が低すぎる。「理系」と一言で言っても、その中には物理学や計算機科学などの分野があり、さらに物理学の中にも生物物理学や地球物理学とあるように、名前の通り対象が違っていることがある。計算機科学も、ハードウェアに焦点を当てている人もいれば、ソフトウェアに焦点を当てている人もいる。また逆も当然成り立ち、「文系」と一言で言っても、哲学や文学、歴史学など様々な分野があり、哲学の中にも形而上学、認識論、論理学などいろいろある。相手に対する解像度が低いと、これもまた容易に、相手を誤解してしまうことにつながる。

 

 では、相手を極力誤解しないようにするにはどうすれば良いのか。それに対する一つの示唆が科学史の方法論から得られる。科学史という学問分野は、特に遡及史観にならないように注意を払う。自分たちがいる現在と過去では人々の考え方や文化、社会の状況が違うため、歴史を見る際に、現在の視点で過去を裁かないよう強く心がけるのだ(Ex: ニュートンは科学者ではない)。

 この、自分と違った状況にある人間に対して自分の持っている尺度で判断しない、という見方は、別に過去を対象とする場合に限った話ではないだろう。例えば、あなたが異国に行って靴を履いたまま部屋を歩いている姿を見て、玄関で靴を脱ぐという常識を知らない可哀想な人だ、と判断するのはどうだろうか。また、外国の方が日本でタクシーの運転手をして、チップをもらえなかったからといって日本人はケチだ、と判断するのはどうだろうか。両者とも、自分が持っている常識でもって相手の行いを判断している。暗黙のうちに、自分の延長上に相手を想定して考えてしまっているのだ。

 

 相手のことがよくわからない時は、自分の価値観で早々と身勝手な決めつけをするのではなく、できる限り相手の立場・状況に身を近づけて考えるよう、自分を柔軟に変化させる必要があると思う。これは何も、互いを思いあえる良い社会を目指すことに主眼があるのではなく、誤解はできる限り避けるべきだと言っているのだ。他を誤解するというのは、文字通り他を誤って解釈しているのであり、実際の現実を正しく認識できていないのだ。これは倫理観や個人の哲学の問題ではなく、真・偽の問題である。間違いを減らすためにも、自分は特定の見方・考え方を有している、という事実に自覚的でありながら、相手を理解しようとする姿勢を持たなくてはいけない。完全な私感だが、こうした姿勢でいることは、副産物的に、人間社会にある役割分担の中で、自分はある特定の箇所で一生懸命頑張るから他の箇所は任せた、といった他に対する敬意にもつながるものだと思う。



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