科学史小話(前編)ほんの少し修正版

  数学の歴史は、「数学者」もしくは「数学愛好家」のためにあるのではない。人間の文化的営為の歴史的性格、それが数学という個別領域の形成を通じていかに顕現されるかということは、特定の人間に属することではない。ー森毅『数学の歴史』


目次

1. ちょっとしたクイズ-私はだあれ
2. シンキングタイム-尺稼ぎにしては長すぎる
 ・歴史・科学・科学史について
3. クイズの答え合わせ-驚きの事実?
 ・科学者と自然哲学者、科学と宗教は対立しない
4. おわりに

 

1.  ちょっとしたクイズ-私はだあれ

 早速ではあるが、クイズから始める。

 次の文章は、皆さんが必ず知っているある人物の著作からの引用である。絶対に知っている人物なので、誰であるか考えてみていただきたい。

ヒント:「歴史上一番有名な科学者は誰か?」というアンケートをすれば、間違いなくTOP5に入ると思う。

 

「神は永遠にして、無限、全能にして全知であります。すなわち、永劫より永劫に持続し、無限より無限にわたって遍在するのです。万物を統治したまい、生ぜられるまた生ぜられうる万事を知りたもうのです。」

「至高の神がかならず存在することはあまねく認められるところです。この必然性より神は『いずれの時』『いずれの所』にも存在するのです。」

 

 おそらくヒントだけから答えを導くことになるものと思われる。第2章が思いのほか長くなったので、答えはだいぶ後にある。2章は飛ばしてしまっても良い。(クイズという体を取るため、出典は後ほど。訳はその出典から拝借。)

 

2.  シンキングタイム―尺稼ぎにしては長すぎる

  答えを考えてもらう間に、この章では科学史がどのような学問であるか書いてみようと思う。


2-1.科学を対象とする歴史学、科学史

 本記事は科学史についてであるが、そもそも科学史とはどのような学問であるか。

    最初に述べておくと、学問としての科学史は、理工書のコラムのために存在しているのではなく、科学者の業績の単なる年表を作成するのでも、過去の人物の業績を称え上げるものでもない。

 科学史は、科学を対象とする歴史学である。歴史学の中でも科学を対象とする、とのことだが、そもそも歴史学はどのようなものか、まずその目的、視点から述べてみる。

 

2-2. 歴史学について考える

 歴史というと、高校までの学校教育等を思い返して、歴史かぁ、と嫌な顔をする方もいらっしゃることだろう。意外かもしれないが、程度の差はあれ、歴史に目を向けることは案外誰でもやっていることである。例えば、卒業研究をするにあたり、何らかのテーマが決まったとする。そうすると、そのテーマが、今までなされてきた研究の中でどの辺りに位置するのか、そのテーマに関して具体的にどのような研究がなされてきたのか、過去に似たような研究はなされていないか、歴史が好きか嫌いかではなく必然的に調べる必要が出てくるだろう。また、卒業研究でなくとも、普段学習する際に、例えば数学だと、なぜε-δ論法を学ばなくてはいけないのか、なぜ未知数をx,y,zで定数をa,b,cで表すのが慣例なのか、なぜx2+x3のように次元が異なっているようなもの同士を足し合わせることができるのか、現代数学は一体なぜ・いつからこんなにも抽象的になったのか、など現在学ぶ対象についてより良い理解をする上で、 歴史を学ぶことは良い助けになる。正しい歴史認識を得るためには多くのトラップがあるのだが、歴史を学ぶにあたって、過去の出来事をできる限り正しく理解するには過去の出来事とどのように向き合うべきだろうか。


2-3. 遡及史観の危険 

 私たちは現代という文脈の上に存在しているのに、意識しないと、自分をとても客観的な存在と見做して、ニュートラルな立場になったつもりで歴史を判断してしまいがちである。

 例えば*1、現代に生きる我々は糞尿をただ汚いものと見做すが、いろいろな史料から判断すると、古代や中世の人々は、そこに神秘性や畏怖を感じていたようだ。実際、人体の構造がわからないと、自分達が食べた食物が、体内を通したら、糞尿のような異臭と色をもつ物体に変化して体外へと出てゆくことは、一種の脅威であり、神秘的な出来事であろう。日本でも、一遍上人のお小水を飲む人たちの話が伝えられており、これは糞尿をただ汚物と考えたのではなく、そこに神秘性を見出していた事例といえるだろう。現代の我々は、糞尿に畏怖や神秘性*2を感じない。それなのに、現在の私たちの常識を古代や中世の人々に押し付けて、彼女ら彼らも自分たちと同様に感じていたに違いない、と決めつけるのは過去を正しく理解しているとはいえないだろう。

 よく使われる表現だが、歴史は異文化理解である。それゆえ、無意識的であれ、自分の価値観を絶対視して、他の文化を賞賛・断罪していては対象を正しく理解することにつながらないだろう。実際、海外で靴を履いたまま部屋に上がる人を見かけた時に、日本の常識をそのまま持ち出して、彼らは子供の頃に玄関で靴を脱ぐことを教わらなかった可哀想な人たちだ、と判断するのは、適切な異文化理解の仕方とはいえない。異文化を理解する際には、自分たちの文化を正義として自分の価値観で相手を称賛や断罪することは避け、自分たちの文化とは異なることを意識するべきだ。過去に対しても異文化と同様に、自分が属する現代における観点から歴史を判断しないよう注意が必要である*3

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*1 この例は、阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』(筑摩書房、2006年、p.114-115)より。
*2 ここでの神秘性とは、調べれば分かるだろうと感じている対象に対して最初にもつ、「確かに仕組みがよくわからなくて不思議だな」という感情とは異なる。

*3 ここで私は、道徳的な意味というより、正しい知識・認識を得るという観点からこのように言っている。喚情的なことは言っていない。



2-4. 科学について考える

 科学を対象とする歴史学、がどういうことか述べるために、先に歴史(学)について述べた。すると、次は、科学とは何であるか、という問いが立つ。結論から言うと、この問いには答えが出せない。

 科学とは何か、と尋ねられると、時代・地域を超えて普遍的、客観的であり誰でも同じ結論が得られる、真実を語る(常に正しい)、全てを解決できる力がある、実験や観察・観測事実に基づく、宗教と真っ向から対立する、絶え間なく進歩する、などなど、その正否はともかく*4様々な科学の性質が挙げられるのではないだろうか。科学の性質は、挙げることは可能なものの、現代において科学はとても多くの側面を持ち、一概に科学とは~である、と言い切ってしまうのはほとんど不可能である。

 科学という言葉に明確な定義がない以上、「科学的でない」と言う時、それは、「あなたがやっていることは科学ではない」という文字通りの意味より、「あなたがやっていることは間違いである」の言い換えに過ぎない。現状、科学的という言葉は、情に訴えかける程度にしか使われていないように思う。実際、「科学的」は「正しい」、「非科学的」は「間違っている」の言い換え表現として用いられがちであり、ともすると、科学でないものは間違っており、学問ではない、という考えすら(無意識的であれ)存在しているように思う。「科学」を「学問」、「科学者」を「研究者」と置き換えても問題がない場面で、意識されずに前者の語が使われているのを目にするだろう。学問全てが科学ではないことへの留意が必要であろう。

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*4 基本的に、正しくないか、ある側面からのみ正しい。

 

2-5.科学の特殊性-科学の眼鏡は色眼鏡

 科学という言葉の意味や性質に関して記述したので、次は科学という営みの特殊性に言及してみようと思う。

 科学は人間の営みであり、人間の営みである以上、時代によって異なる人間のものの見方・考え方、前提知識に影響を受ける。言い換えると、科学は人間の文化活動の一つであり、例えば現代の科学は現代という文脈から乖離して考えることはできない。それゆえ、科学の眼鏡で世の中を見るというのは、ある特定の文化の上で、世の中を見ることであり、科学の眼鏡は一種の色眼鏡に他ならない。

 科学は、成長する過程で自然と獲得していく母語のようなものではなく、学校や教科書などで訓練を経て手に入れる“特殊な“知である。実際、科学は特徴的な問いの立て方をするし、化学の研究において時代的に新しいものが重要視される傾向にある*5

 問いの立て方については、物理学を例にとると、落下運動を考える際に、力がいかに作用するか(how)、は考えるが、力がなぜ作用するか(why)という運動の原因は考えない。さらに、物体に意志を認めることがないため、人間の精神作用を物理法則で問うたり十分に説明したりすることができない。

 また、新しいものほど重視される傾向にある、というと、科学は有史以来直線的に進歩し続けているような印象を持つかもしれないが、そんなことはない。わかりやすい例は、地球中心説(天動説)と太陽中心説(地動説)の例だろう。地球が中心である、という前提の上でいくら知識を積み重ねても、それがそのまま地動説にはつながらない。また、天動説の中で唱えられた理論全てをそのまま、地動説の中で流用することはできない。天動説から地動説に至るには、パラダイム*6が変化する必要がある。科学は変化し続けているかもしれないが、それは直線的な進歩ではないだろう。科学の進歩によって、世の中が進歩する、という見方も時代の産物なのである。

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*5芸術(今回は絵画)と比較してみれば理解しやすいかもしれないが、遠近法という技法が使われる以前の作品の方が、以降の作品よりも劣っているということはないだろう。また、ピカソの作品の方がダヴィンチの作品よりも優れている、ということもないだろう。

*6 T. KuhnのThe Structure of Scientific Revolutions(今の邦題『科学革命の構造』)の新版が2023年6月に出るので是非読みましょう。


2-6. 改めて科学史について

 科学とは何かについては、本も多いので(その分怪しい本も多い気がする)、そちらを参考にしていただくとして、科学史に話を移す。歴史については上で述べた。では、科学を対象にする歴史学とはどのようなものか。ようやく問いに答える。

 科学者は科学の中で活動しているのであり、科学(という文化)それ自体を対象にしているわけではない。それゆえ、科学者は基本的に、研究として、科学という人類の営みが時代を経てどのように変化してきたか、科学と社会との関係性はどのように変わったか、などの問いを立てることはない。一方、科学史は、科学が扱う個別の対象というより、人類が行ってきた科学という特殊な知の営み自体を対象とすることができる。

 科学史というと、小学生の頃に読んだであろう、伝記を想起するかもしれないが、それは一面的にしか正しくない。実際、科学史における重要人物一人に焦点を当てた本も多く存在する。だが、一般向けに書かれた伝記は、理解しやすさや面白さに力点が置かれ、過去の偉人紹介・英雄列伝の体を取ることが多い。それゆえ、理想像と合致しない、過去の人物の言行は省略されたり、目が向けられたりすることがない。また、科学を直線的に進歩するものと考えて、現在の視点から、過去の出来事をすでに乗り越えられた誤り・人類の汚点のように見做しがちである。これは、先ほど述べた歴史を正しく理解することとは違っている。繰り返しにはなってしまうが、現在の視点から、過去の人物の業績を評価して過剰に賞賛や批判をすることを避け、当時の状況に寄り添って過去をできる限りあるがままに理解しようと試みることが重要であろう。そして、それによって、より正しい歴史認識を得て、現在の理解にも繋げるのが科学史である。

 

2-7.科学史を通して

 自分が生きている時代とは異なる過去を内在的に理解することで、現在では常識とされていることが、いつの時代にも当てはまるわけではないことに気づき、現在の科学界における常識は永遠に不変の真実ではないこと、自分の中にも数多くの偏った見方や誤った認識を持っていることに気づくことができる。自分とは違う文化に触れることで、自分の理解にも繋がるのではないかと思う。

 また、今までにも多くの誤りがあり、現在の学問も先の未来から見たら間違っているかもしれない。それでも、より良い適切な理解を得ようと人類の知を更新していくこと、現代に生きる自分たちができる範囲で懸命に頑張ることが大事なのではないだろうか。少し格好良く言えば、過去に目を向けることで、別の時代の人に見られるという視点を獲得して、いずれ今の自分が笑われることがないよう今自分ができることを精一杯頑張ろう、と未来にも目が向くようになり、現在を頑張る活力にもなるのではないだろうか。

 喚情的なことを書いてしまったが、科学史は別に情に訴えかけるものではなく、自己啓発の役割があるのでもないと思う。

 さて、長らくお待たせしたが、十分すぎるほど尺を稼いだので、最初に立てたクイズに答える。

(後編に続く)


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